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東京高等裁判所 平成7年(う)249号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役二年に処する。

原審における未決勾留日数中一八〇日を右刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人榊原卓郎及び同依田敏泰共同作成名義の控訴趣意書及び控訴趣意補充書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、検察官中嶋三雄作成名義の答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

所論は、要するに、被告人を懲役三年に処した原判決の量刑は重過ぎて不当であり、被告人に対して刑の執行を猶予するのが相当である、というのである。

所論に対する判断に先立ち、職権で原審記録を調査して検討すると、原判決は、罪となるべき事実として、被告人が平成六年四月二九日に自己の直系尊属(実父)であるAに暴行を加えて傷害を負わせ、その結果、同年五月二日にその傷害により同人を死亡させたとの事実を認定し、被告人の原判示の所為は、刑法(以下「旧法」というものと同じ。)二〇五条二項に該当するとして同条項を適用している。しかし、同条項は、平成七年法律第九一号(刑法の一部を改正する法律。平成七年六月一日施行)による改正後の刑法(以下「新法」という。)においては削除されている。したがって、平成七年法律第九一号による改正前の刑法(以下「旧法」という。)二〇五条二項は、被告人の行為時においては勿論有効であり、また、平成六年一一月二九日の原判決の言渡時においても有効であったが、原判決後に、右規定が新法から削除され、なお、平成七年法律第九一号附則二条一項ただし書においても、同法施行前にした行為の処罰について、旧法二〇五条二項は適用されない旨規定しているので、現在においては、原判示の事実に右規定を適用することは許されない。すなわち、本件においては、刑訴法三八三条二号に定める「判決があった後に刑の廃止があった」場合に該当する事由があると認められるのである。しかしながら、被告人の原判示の所為は、行為時においても、刑の加重的特別規定である旧法二〇五条二項の適用がなければ、当然に普通の傷害致死として旧法二〇五条一項が適用されるものである。そして、同条項は、新法二〇五条に、規定の内容が構成要件、法定刑ともに同一のまま引き継がれているのであり、なお、旧法の適用に関し、平成七年法律第九一号附則二条一項本文が、一定の例外を除き、同法の施行前にした行為の処罰についてなお従前の例による旨規定し、これにより、現在においても、被告人の原判示の所為に旧法二〇五条一項を適用することはもとより許される。また、本件訴因との関係についてみても、本件訴因は、原判示の事実と同じく尊属傷害致死の事実を掲げたものであるが、被害者が被告人の直系尊属であることを犯罪構成要素から除けば、普通の傷害致死の事実を掲げたものとみることができるのであるから、訴因変更の手続きを経るまでもなく、本件訴因の範囲内で普通の傷害致死の事実を認定することができるというべきである。

以上要するに、本件は、尊属傷害致死罪で処罰することについては、犯罪後の法律により刑の廃止があった場合に当たるが、本件訴因の範囲内で普通の傷害致死罪により処罰することはできる場合であるので、被告人に対し免訴の言渡しをすべきものではなく、本件訴因の範囲内で認定できる犯罪事実に基づき、被告人に対し、旧法二〇五条一項を適用して刑の言渡しをすることはできるものと考えられるのである。

そこで、量刑不当の控訴趣意に対する判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八三条二号により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書を適用して更に被告事件について判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は、平成六年四月二九日午前一時三〇分ころ、埼玉県所沢市若狭〈番地略〉所在の自宅において、被告人と一緒に住んでいたAに対し、右手拳で同人の顔面等を数回殴打し、同人を床に転倒させるなどの暴行を加え、よって、同人に後頭部及び顔面部打撲による硬膜下血腫の傷害を負わせ、その結果、同年五月二日午前一〇時一三分ころ、同市若狭〈番地略〉所在の吉川病院において、右Aをして右傷害により死亡するに至らしめたものである。

(証拠の標目)

被告人の当審公判廷における供述を加えるほかは、原判決の「証拠の標目」の項に挙示する各証拠と同一であるから、これを引用する。

(本件訴因中、傷害致死の事実を認定した理由について)

本件訴因には、判示事実に加え、被告人の暴行により死亡したAが被告人の直系尊属(実父)であるとの事実が掲げてあるが、先に判断したとおり、致死の結果が生じた者が直系尊属であることを刑の加重要件とする処罰規定は、裁判時においては廃止されているので、右Aが被告人の直系尊属であるとの事実は、罪となるべき事実を構成する事実には当たらず、したがって、本件訴因の範囲内で、判示のとおり普通の傷害致死の事実を認定したものである。

(法令の適用)

被告人の判示所為は、平成七年法律第九一号(刑法の一部を改正する法律)附則二条一項本文により、同法による改正前の刑法二〇五条一項に該当するので、その所定刑期の範囲内で後記の情状を考慮して被告人を懲役二年に処し、前同改正前の刑法二一条を適用して原審における未決勾留日数中一八〇日を右刑に算入することとする。

(量刑の事情)

本件犯行は、被告人が、深夜、二階で寝ていた当時六六歳の父親のAが小用のため一階の便所に降りて来た際、不愉快な音をたてたなどとして、全く無抵抗な同人に対し、一方的に暴行を加えて、その結果、同人を死亡させるに至ったものである。すなわち、本件においては、まずもって、人一人の命を失わしめたこと自体、被告人が厳しく責められるべきことはいうまでもない。犯行の態様をみても、被告人は便所から出て来たAに対し、その隣の脱衣場で、右手拳でその顔面を一回殴打し、台所に逃げ込んだ同人をなおも追いかけ、さらに台所内で、同人の顔面を数回強く殴打して、床の上に転倒させるという暴行を加えたものであって、かなり執拗なものであり、同人の年齢や健康状態などを考慮したような様子はほとんどみられない。犯行直後には、Aに重い傷害を負わせたことに気付かなかったとしても、翌三〇日には同人の目の付近が青黒く腫れ上がったような状態になっていた上、数日後、同人の様子が急変し、同人の妻すなわち被告人の母親などが、Aを医者に連れて行くために救急車の手配などするに至ったのであるから、被告人自身も、自ら同人に怪我を負わせた者として、その治療に万全の力を尽くすべきであったことはいうまでもない。しかるに、そのような状況に至っても、被告人には同人の容体にさほど気を遣うような様子がみられず、一人で勝手に酒を飲むなどしていたことが窺われる。すなわち、この点、被告人が同人と親子関係にあるということを除外して考えても、自己の行ったことがいかなる結果をもたらしたのか深く考えようともしていなかった被告人の無責任な態度は、強く咎められてもやむを得ないというべきである。被告人としては、被告人の成育過程で、Aから親らしい愛情を注がれたという思いがなく、むしろ、何かにつけて被告人ら家族の者に対して暴力を振るわれたり、全く身勝手な行動を取られたりしていたことが多かったという思いであったことから、Aに対しては極めて冷たい気持ちしかなく、お互いの間に大きな心の壁のでき上がっていたことが、本件犯行に及ぶに至った背景にあったことは窺える。しかし、本件犯行の直接のきっかけは、同人が便所で用をたす音が、一階六畳間でテレビを見ながらウイスキーを飲んでいた被告人のもとにまで聞こえて来たという、いわば、些細なことであり、従来より、同人の便所で用をたす音がよく聞こえて来て、不愉快に思うことの多かった被告人が、その点、母親を通すなどしてしばしばAに文句を言っていたという事情のあったことは認められるにせよ、右のようなきっかけで、被告人が同人に対し判示のような暴行を加えたことにつき、同情の余地があるなどとは到底いうことができない。Aとしても、自分のすることが被告人を含め家族の者らから嫌がられることが多いなどということには気付いていたにせよ、自分の息子から、まさかこのような形で生命を失わされるに至るとは予想すらしていなかったことであり、その意味でも、Aの無念な思いには察するに余りあるものがある。したがって、以上のような諸点に照らし、被告人の刑事責任は、重いものである。

そうすると、Aが、被告人の母親らから医者に行くことを勧められた際に、その勧めに従っていれば、あるいは、死の結果には至らなかった可能性もあったと窺われること、被告人も、現在では本件犯行を反省後悔し、無理にでもAを医者に連れて行けばよかったと悔やんでいること、被告人には、これまで全く前科前歴もなく、真面目な社会人として生活してきたこと、被告人は、本件により、これまで順調な昇進を遂げていた会社も退職せざるを得なくなるなど、社会的な制裁も受けていること、Aの妻の立場である被告人の母親や、被告人の妹も、被告人を許す気持ちになっていること、また、被告人の大学時代の教師や同級生、会社の元同僚らも、被告人の今後の更生に協力する旨申し出ていること、被告人が、財団法人法律扶助協会に対し一〇〇万円の贖罪寄付をしていること、なお、本件に関し、前示のとおり処罰規定の改正があり、法定刑が軽くなったといえることその他、弁護人指摘の被告人のために酌むべき諸事情を十分に考慮しても、本件において、被告人に対し刑の執行を猶予するのは相当であるとはいえず、主文掲記の刑を科することは、やむを得ないものと考えられる。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 松本時夫 裁判官 円井義弘 裁判官 岡田雄一)

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